SHINOBAZUコラム108
2006.4.3

おりんと平太郎 (2)
水上勉「はなれ瞽女おりん」 斎藤真一「越後瞽女日記」

3月18日付けの朝日新聞土曜版Beに、水上勉先生と斎藤真一先生の描きつづけた越後瞽女についての特集が掲載されました。
昨年ご紹介した野田雄一先生のエピソードも掲載されています。前回に続き、後編をご紹介します。

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斎藤真一「かつの恋」
1977 油彩

■タブーを破って恋に生きる

 ガラス工芸家で富山市立富山ガラス造形研究所教授の野田雄一さん(50)が、斎藤真一さんの油彩「かつの恋」を買ったのは80年。まだ徳島大学工学部の学生だった。岡山市で開かれていた個展で、「一目見てぼーっ」となり、四国へ戻る連絡船の上でどうしても欲しくなって、岡山へ引き返した。

 
値段は80万円以上。用意できる現金は、インド旅行用にアルバイトで稼いだ20万円だけ。残りを2年の月賦にして欲しいと頼み込むと、斎藤さん本人が保証人になってくれた。

 
いま、斎藤作品中の名作として知られ、美術館からしばしば貸し出し要請がある。瞽女を背後から男が抱くという図柄も特異なら、画家自身が「赫(あか)」と表現する赤い色が印象的だ。モデルは、かつという実在した瞽女で、杉本キクイさんの親方だった人である。

 
妙高山麓(さんろく)赤倉温泉の旅館の娘だったので、赤倉瞽女と呼ばれた。美貌(びぼう)で美声。歌は他の追随を許さなかった、と伝えられる。いい寄る男も多く、絵はそんな状況を描いている。

 「はなれ瞽女おりん」のおりんもまた、美貌と美声で男たちの欲望をそそった。ときにエロチックな歌を歌うのも瞽女の芸のうちである。雪多く、山深い越後の農村では、年に1、2度巡ってくる瞽女は華やかな雰囲気をまとった芸能人だった。

 
しかし、男と通じることは瞽女仲間でタブー視されていた。破った者は、修業年限を延ばされたり、追放され、離れ瞽女になったりした。瞽女の旅は、少し目が見える先導者の背に指を触れ、2人、3人と連なって歩く。仲間外れは生死にもかかわった。おりんはそんな境遇に放り込まれ、食いつなぐために男と肌を重ねてゆく。

 
赤倉瞽女かつも、離れ瞽女にこそならずにすんだが、後ろ指をさされて生きなければならなかった。その憂さを宴会のらんちき騒ぎで晴らす繰り返しもあり、44歳で旅先で急死するまで、父親が不詳の子どもを4人生んだという。子どもの行方もはっきりしない。

 
野田さんが、「かつの恋」を見てぼーっとなったのは、タブーを踏み越えていった女の情念の強さを感じたからだった。絵にそそのかされるように大学を中退、恋人を追って上京し、結婚。斎藤さんの世田谷の家の近所に住み着いて、押しかけ弟子となり、ついにはガラス工芸の道に進む。

 
斎藤さんが「越後瞽女日記」にかきとめた瞽女は142人。盲目という条件の下で、奔放な愛に生きた瞽女が少なくなかったことがわかる。

 
ちなみに、かつより少し年下で、おりんという瞽女が同じ杉本家にいた。「どこにいるか、わからない感じであったとか。二十歳のとき家出する」と斎藤さんは記している。水上作品中のおりんとは、タイプが違ったようだ。

*****

 「自分から離れ瞽女になる者も多かったんです」というのは、映画「はなれ瞽女おりん」の時代考証に携わった市川信夫さん(73)。上越市にある新潟県立高田盲学校の教師を長く務め、盲目の少女の成長を書いた「ふみ子の海」という児童向け物語の作者でもある。映画「はなれ瞽女おりん」の助監督だった人がこの作品を映画化中だ。

 
「集団で旅をする瞽女は、老若、上手下手関係なく、収入を平等に分配した。一種の社会福祉的な仕組みです。でも、若くて人気のある瞽女は、ひとりで旅回りした方が実入りが多くなると考え、飛び出したんです」と話す。

 
1年のうち300日を旅に費やす瞽女は、地元の高田でも、生活の詳細を知られていなかった。その存在に早く注目していたのは、市川さんの父親で民俗研究家の故信次さんだ。

 
戦前の39年、「グラフィック」という大判の雑誌に「越後の瞽女」を寄稿、離れ瞽女についても言及している。初めてマスメディアに現れた瞽女の記事だと思われ、終生の友人だった写真家・濱谷浩さんが撮ったらしい画像も添えられている。

 
信次さんは、戦後もずっと、瞽女の暮らしに気を配り、キクイさんの無形文化財選択にも、大きな力があった。

*****

 いまは妙高市になっている新井の東本願寺別院の縁日に、いつも現れる離れ瞽女がひとりいた。むしろに座って弾き語りするのを見つけるたび、信次さんはお茶を振る舞っていた。

 
彼女が姿を見せなくなってしばらく後、夫と名乗る老人が訪ねてきた。妻が死ぬ間際、「市川という人にはよくしてもらった。形見にもらってほしい」というので、寺泊(長岡市)から三味線を届けにきたとの話だった。

 「幸せな結婚をしていた離れ瞽女だったと知り、おやじはほっとしたと、話していました」と信夫さんはいう。

文・穴吹史士 (朝日新聞 3/18付記事を転載させていただきました)

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